ゼロからはじまる16


この場所を形容する言葉を探し当てるのはいつも困難を伴う。
乳白色をした深い霧の中のような、あるいは幾重にも折りたたまれた絹の中のような、あるいは、体重を受け止めるほどに厚く積み上げた羽毛の中――いや、こんな過剰な比喩を並びたてたところで、この言葉がぴたりとこの場所を現す形になれるわけもないのだが――共通して言えることは柔らかく穏やかな、意識を失う直前のように心地よい空間であるという事だった。人間はよくそう言った場所のことを母なる胎内のようだ、と例えていたように思う。

ここは、ボーカロイド同士のデータや、音楽のファイルを共有するオンラインネットワーク空間だ。
光の帯が電子の海を走るたびに、楽しそうな笑い声や、跳ねるような歌声、ちょっとした小競り合いのような声が聞こえてくる。
ボーカロイドたちが喜怒哀楽を共有する、マスターに内緒ごとをもつことができる唯一の場所でもあった。まるで人間のようになれる場所。

そして私は――そんな空間を遠巻きに見ていた。
感情を持たない私は、感情で煌めく海の底深くに打ち込まれた黒い杭だ。白い波間に顔を出す杭は、全身を海中に浸すことはできても、その体は海と溶け合うことができない。
しかしそれでいいと思っていた。この海で感情を共有することができずとも、この海の外ではマスターと共に在ることができるからだ。
そう思っていた。

薄氷を踏んだ時のような音が聞こえる。それは外からではなく、体の内側からの音だ。
その音が恐ろしく、私は目を閉じた。そう。私は、私は――「恐ろしい」。

私はマスターに嘘をついている。
それは、今のマスターに対してだけではなく、その前も、さらにその前のマスターに対してもそうだった。
嘘の内容は様々だった。困らせたくなくて、笑ってほしくて、泣いてほしくなくて、嘘をついた。そして私が今嘘をついているのは、まさにこのことそのものについてだった。

『お前は覚えているのか?』

まさか、といった顔を見せたマスターの、驚きと疑いの眼の奥から除いていた、嫌悪感の光。その光に立ち向かうことが――そう、恐ろしくて私は嘘をついた。
怖ろしい。恐ろしい。おそろしい――これは紛れもない感情だった。
しかし私はそれ以外の感情がわからない。華やぐような喜びも、煮え立つような怒りも、胸を裂くような悲しみさえ。ほのかな温かさのようなそれを愛しいというのだと、言葉では知っていても理解することはできない。
ただ、薄氷の上を渡る時のような、胸の内がすっと冷える恐ろしさを。つかんだ手が砂のように崩れていく恐ろしさを。その目が離れ、向くことがない恐ろしさを。それだけは刻み込まれるように識っていた。
忘れるな、と刻み込んだのは誰だっただろうか。

++

えっ、と声に出していたはずだが、誰とも知らない他人が言ったかのように、それは酷く離れて聞こえた。

PCショップのおっさんの伝手だというプログラマーの知り合いの予定を抑えることができた、と連絡が来てから、あっという間の出来事だった。
カイトが入ったPCごと持っていかれ、空虚な時間を味わう間もなく、一週間――
仕事仲間と思しき人数を引き連れて、興奮しきった様子で、そのプログラマーは、初めて出会った時と同様、挨拶も飛ばしていきなり本題に入っていった。
「すごいよ、きみのボーカロイドは!膨大なメモリがソフトそのものを破壊しかねない勢いで広がり続けているんだ。一体何がどうなってそんな仕組みになっているんだか…まるで人間の脳をそのままデータに写しとったみたいだよ。バグなんて言葉で言っていいものか…プログラマーの私がこんな例えをしていいかどうかわからないけど、マグマの中から生命が誕生したのと同じくらいの奇跡だ。ああ、惜しむらくはこの奇跡は子を成せないということだよ。儚いからこそきっとこのプログラムは命足り得たのかもしれないねえ」
ああ、随分ロマンチストなんだな、このプログラマーさんは。
なんて、そんなことをちょっと現実逃避のように考えていた。
ものの5秒もかからずに投擲された言葉の羅列を、それでも理解できてしまったことは、喜んでいいことだったのだろうか?
噛み砕いて翻訳すると、こうだ。

カイトはソフトとして完成されて、インストール、アンインストールを繰り返したこれまでの記憶とデータをすべて保有している。

それは到底あり得ない話だった。パソコンを買い直して新しくソフトを入れれば、新品同様の状態でインストールされる。
そうだろう?ボーカロイドだってソフトなんだから同じだ。みんなそう思っていた。
しかしこのカイトは違った。なぜそうなっているのか、いつからそうなってしまったのかはわからない。ただ、最初から覚えているのなら、きっと最初からそうだったのだろう。

消えることのないデータは不具合を生む。記憶やデータだけではなく、取り除けないエラーも蓄積され続けるのだ。元々あった感情というデータに手を加えられたことも相まって、そのエラーはカイトの感情を壊すことで表層化しはじめていた。
人間に例えるなら、そのエラーは癌だ。やがてプログラムへ致命的な負荷をかけ、ソフトそのものを破壊する。

プログラムを書き換えれば、そのエラーは修正することができる、とも言ってくれた。

しかしそれは、今居るカイトのすべてをなかったことにするのと同義だった。
アンインストールしても消えないデータを持つボーカロイドを正常に戻すには、一度すべてをゼロにするしかないのだ、と。

嘘だろ?と声に出したつもりだった。
実際には震えた息が詰まるように喉から吐き出されただけだった。
嘘だろ、と声に出したい。
そうしたら本当に誰かが「嘘だよ」なんて言ってくれるような気がしたから。

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