++



「そんなことありえるはずがないでしょう」





あれだけ意を決して問いただした答えは、やけにあっさりとしたものだった。
覚えているか、とは一体何を指しているのか、と訝しげに尋ねてきたカイトに、俺は唾をごくりと飲み込んで、言った。

お前は、俺に出会うこれまでの記憶を、覚えているのかと。

その答えが、これだ。




――脱力した。




そりゃあもう、思いっっっきり脱力した。
さっきまでかいていた嫌な汗もどこかへ消え去り、未だ落ち着かない鼓動が体の中心を忙しなく叩く。
「私はこうしてマスターの前に人の形を取って実体化していますが、それでもソフトウェアであることに変わりはないんですよ。アンインストールされれば、全てのデータがリセットされます」
ああ、なんだか以前俺が呟いたような事と同じことをカイトが言っている。
どっと脱力した後はなんだか安心しきってしまって、俺は情けなく笑みをこぼした。
「いやあ、説明書読んでそのことは知ってたんだけどさ……」
「でしたら、なぜ」
「…………」

何故だろう。
理解していたその事柄を思わずもう一度問いただしてしまうほどに、さっきまでのカイトはやけに人間らしかった。
人間そのもののような感情を持ち、人間の持ちえるような記憶を持つ素振りを見せる。
(……待てよ)

何かが胸に引っかかった。

まるで本物の人間のようだったカイトを見て、(実際は勘違いだったにしても、だ)俺は一体そのとき何を感じた?

ただ一言、「お前は覚えているのか?」その言葉を口にするまでに全身を襲っていた感情はなんだった?


何かに怯えていた。
何かを恐れていた。
それが何かはわからないが、俺は確かにあの時。

カイトに嫌悪感を抱いていた。



(……待てよ。落ち着け。そのことに罪悪感を感じるのはあとでいい。それよりも大事なことは、)

これと似たような話を、どこかで聞かなかったか?





『いや違うんだ。これは最初中古販売してた分なんだけどね。以前これを買ってったお客さんが返品しにきちゃって』
『返品?』
『そう。中古販売だから返品は受け付けないって言ったんだけど、不良品だし気味悪いから手元に置きたくないって無理矢理置いていっちゃってさ』
『ボーカロイドは人間に限りなく近い感情や性格を持ってるんですよね?リアルすぎて気持ち悪いって事ですか?』




――気味が悪い。

言葉のニュアンスは違えど意味は同じだ。
カイトを手放したというその男の、理由に繋がりそうな何かを、無意識に掴んだような気がした。
けれど、それがなんなのかはまだわからない。

(わからない?いや、それもなんか違うな…)

何か違和感があるのだ。
これまでの、もしかしたら最初からの前提に、決定的な違和感がある。
その違和感がなんなのかわからないから、落ち着かないのだ。


「マスター?」


カイトの声で、思考が中断する。
どちらにしても、これ以上考えても煮詰まるだけだ。
何かしら共通点のようなものが見つかっただけでも前進したといえるだろう。



いつものように、返事をほったらかしていた事を謝ろうと口を開きかけ――

「何か、お気に触ることをしましたか?」

カイトのその言葉に意表を突かれた。
「えっ?」
思考の海に嵌る俺を、カイトの声が呼び戻すのはよくあることだ。
けれど、こんな問いかけは聞いたことがない。
慌ててカイトの目を見つめると、先ほどまでの自然な感情の流れこそなかったが、それは確かに不安げに揺れていた。
わからない。もしかするといつものように俺の思い過ごしなのかもしれない。
でも、つい今しがたあまりにも綺麗に微笑んだ姿を見た後となれば、その不安な光さえも、現実のように感じる。

「もしそうなのだとしたら、謝ります。申し訳ありません」

…いや、訂正しよう。確かに今のこのカイトは常とはまるで違っていた。
今でこそ表情は固まったように動かないが、それさえも不安に怯えているのかと穿ってしまうほどだった。
俺は慌ててカイトに向き直り、ぶんぶんと首を振った。
「ちょ、ちょっと待った。謝るのは俺の方だって。なんかまた考え込んでお前ほったらかしちゃってたしさ!」
しかしカイトは小さく首を横に振る。
「いいえ、マスター。それはマスターが常に行っている行為です。私は…私は、違います」
「違うって、何が?」
「いつもと違うことを私がしてしまったから、だからマスターは、なにか問題があると、それで考え込んでしまったのではないですか?」
いつもすらすらと言葉を紡ぐカイトにしては、その言葉はやけに違和感のあるものだった。
人間で言えば、緊張や興奮状態にある時のようだ。言葉の中の接続詞が不自然だ。

「なんだよ〜大げさだな!そんな、問題って、」
カイトを元気付けようと声を張り上げたところで、
「あっ」
ふと、もう一つカイトに聞くべき事柄を思い出した。
「そうそう!そうだよ!」
「…………」
むしろ、こっちこそ優先させて聞くべきことだったのかもしれないが、まあ順序が逆になっただけだし、構わないだろう。
さっきまでは俺自身の不安の種にもなっていたものだが、考え直してみれば、これはかなりいい知らせになるかもしれない。
未だどことなく不安そうなカイトの肩を掴んで、俺は勢いよく揺さぶった。
カイトの首がガクガクと揺れるが気にしない。
「問題じゃないって!むしろいいことかもしれないんだぞ!」
「……?」

「お前、さっき笑ってたんだ!」


沈んでいたように見えていたカイトの目が二回、瞬きをした。
驚いた時なんかはそうなるのを俺は知っている。

やっぱり気づいてなかったか、と得意げに笑みをこぼす俺に、カイトは不思議そうに呟いた。
「笑って、いたのですか」
そう言って、カイトは自分の右手のひらをそっと両頬に当てた。
しかし特に変化のない今では、頬が持ち上がった感触どころか、たいした筋肉(ボーカロイドに筋肉ってあるんだろうか?)の動きもわからないかもしれない。
「お前、確か自動修復機能って奴があるんだよな?もしかしたら、知らないうちに勝手に直ってたりしてな!」
事実を言葉に重ねれば重ねるほど、俺の中のテンションは上がっていく。
知らず知らずと声を張り上げていたから、そのカイトの変化にも気づけなかったのかもしれない。
カイトも一緒に喜んでくれるとばかり思っていた。

「そんなこと、ありえませんよ」

――それはいつも通りの感情のない声音だった。
だからこそそれはいつも以上に冷たく響いて、浮き上がっていた俺の声と心を一気に引きずり落とす。
「…………っ…」
声が出せなかった。
ただ、肩を掴んでいた手が細かく震えていることをやけにはっきりと感じる。

「ありえない。そんなこと、ありえません」

俯いたカイトの表情がわからない。
激しい口調ではなかった。
張り上げる怒声でもなかった。
いつもの静かな声音だ。
けれど、それは、いつも通りなんかじゃない。
手が、細かく震えていた。

「マスター」

俯いたカイトの表情がわからない。
怒っているのか?
否定したいのか?
何を怒っているのか?
あるいは、悲しんでいるのか?

一瞬で色んな疑問が脳裏を駆け巡るが、それに対する答えが返ってくるわけもなく、ただ、手の震えだけを感じる。
カイトが再び、呟いた。

「……マスター、わたし、は」



そこで俺はようやく気づく。

震えているのは、俺じゃない。



「……カイト?」

思わず声を上げ、カイトが俺の声に反応して顔を上げる。
そうして、俯いた顔を上げた、瞬間だった。


激しい音と光に一瞬で目が眩んだ。
同時にカイトに触れていた肩の部分から電気のような痺れを感じる。

「うわっ!?」
驚いてカイトから手を離す。
怪我はなかったが激しい衝撃と予期していなかった事態にまたしても心臓が跳ね上がる。
俺以上に衝撃が大きかったのか、目の前に立っていたカイトの腰が落ちていた。

「カ、カイト!?大丈夫かっ!?」
慌ててカイトの傍へ座り込み、手を伸ばそうとして、躊躇した。
一体何が起こったのかはわからないが、俺が触れたことでそうなったのだとしたら、再び触れるのは止したほうがいいかもしれない。
とにかく、安否を確認するために、伏せていた顔を下から覗き込む。
「カイト!カイ―――」

カイトは。

カイトは、青ざめた顔で震えていた。

先ほどの自然な笑顔を見せたあの時のように、人間そのもののように、青ざめ震え、怯えていた。
今度はカイト自身もその感情の流れに気づいたのだろうか。
左手で口元を押さえると、右手で更にそれを押さえつける。
まるで、その顔に表情が浮かぶこと、それ自体を恐れているかのようだった。
「!」
再び白い電光が、先程よりは小さいものだったが、カイトの周辺に浮かんですぐに消えた。
「…………カイト」
光に目が眩んで閉じていた一瞬の間に、カイトの表情は既に落ち着きを取り戻していた。
青ざめていた色も、怯えていた顔も消え去り、俺がいつも知る、無表情のそれになる。

(どういうことなんだ?)

これまで何事もなかったというのが嘘のようだった。
突然現れた沢山の疑問は、俺に混乱を与えるに十分な速度で体中を侵食していく。
「……申し訳ありません、……マスター」

カイトがそう言って、自らパソコンに戻る時も、俺は止めることも声をかけることもなくなく呆然と目の端でノイズが動く様を見つめていた。

一体何が起きたんだ?
事態は、好転したのか?それとも悪化の一途を辿っているのか?
それさえも何もわからない。




++




あれから、数日がすぎた。
俺は部屋の中で一人、パソコンと向き合って座っている。
といっても、パソコンはスリープ状態のままで、起動しているわけではない。
カイトもプログラムから終了しているため、今は眠りについているはずだ。
カイトを襲った謎の電光について、ウイルスも考慮してメンテナンスを行ってみたが、特に対した異常は見つからなかった。
カイトの様子も、あの日を境に何か変わるというわけではなく、いつもの用に、声をかければ挨拶をしてくれるし、歌も歌ってくれる。俺が気を抜けば容赦ないツッコミも飛んできた。
つまりは――何も変わらなかった。
俺だけが変にカイトを心配してはカイトに「大げさですよ」なんて注意されたりして――


(本当に何もなかったのか?)


そんなはずはない。
あの時のカイトの感情の変化は、間違いなく、異常だ。
その異常が、いい意味なのか悪い意味なのかはわからないが、ともかく、放って置いていいというものでもないだろう。
とはいえ、肝心のカイト自身は、そのことについて覚えていない――あるいは触れて欲しくないようなのだった。
それとなく話題を振れば無視するし、直接的に尋ねてみれば、覚えがない、の一点張りだ。
(覚えてない、のかな……本当に?)
今の俺にはそれを判断する術がない。いってしまえば、手詰まりの状態だった。
(あーっ、くそっ!)
頭をがしがしと掻いて、深呼吸を一つ。

それで問題が解決するなら苦労はしない。





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